2016年9月18日(日)
「第46回 円空学会総会」が岐阜県高山市の辻ヶ森公民館で開催され、匠琳先生が出席しました。
辻ヶ森神社です。
匠琳先生の開会宣言で総会が始まりました。
総会の様子
(左の写真は、前田邦臣氏 撮影)
2016年6月20日(月)
世話役の枝久保さんと斎藤さんに、名札の組み立て方をアドバイスしています。
尊名の書き方をアドバイスしています。
円空研究29号の尊名の変更を説明しています。
こちらが、出来上がって奉納した薬王寺円空仏の名札です。
2016年5月23日(月)
これは2010年7月14日発行の薬王寺調査報告の円空作薬師三尊及び十二神将以外の十四体の像の精査が十分でなかったので、総代さんの許可を受けて5月23日に一回目の調査に匠琳先生が行ってきました。
調査対象は次の通りです。
不動三尊、金剛神「仁王」像、尼僧像、稲荷権現像、武塔天神像、牛頭天王像、善女竜王像2体、秋葉権現像、山王神像、菩薩像 以上です。
薬王寺旧本堂です。
貞和4年(1348年)4月創建、宝暦7年(1757年)5月再建といわれています。
さらに昭和6年5月4日再建、この時かやぶき屋根を瓦屋根に葺き替えられました。
正法院の末寺であり、号は瑠璃山といわれていて、本尊は不動明王です。
本堂から見て南西の位置に稲荷社、痘神社を祀るほこらがあります。
更に北東の方角に山王神を祀るほこらがあります。
薬王寺本堂から見て鬼門の方向にそれぞれ建てられています。
堂には二社宮があり、向かって左には稲荷社、右には痘神社、その前にそれぞれ御幣が置かれ、形の違う鉄板を打ち抜いた鳥居が立てかけてあります。
稲荷社
(打ち抜かれた鳥居は飾り打ちをしています。)
痘神社
(こちらの鳥居は平板のままです。
形も稲荷社のものとは違います。)
匠琳先生が、中のものを出して精査しているところです。
これが山王社です。
中を精査しています。
堂の中に一社宮があり、更に新しい小さな一社宮があり、それぞれ御幣が飾られています。中には何もありませんでした。
たぶんこの中に円空は山王神を彫り祀ったと思います。
この円空の彫った山王神像の背面には、鉈の打ち下ろした跡が無数にあります。これは、薬王寺で円空仏を彫る時に使った彫り台と思われます。
ですからこれが薬王寺で最後に彫った像と思われます。
一社宮があります。
棟札です。
本堂横の壁に十二支の文字が書いてあり、総代さんはじめ皆さんと一緒に確認し合っています。
大きな鰐口があります。
「大宮郷土史」によると、直径が65㎝、厚さが10㎝
(表面)奉納 武州足立郡嶋村中
弘化四丁未年四月吉日(1847)
(裏面)瑠璃山平等院藥王寺
鑄工 江戸大門通角 銅屋清次郎作
匠琳先生が精査しています。
これは不動三尊を確認しています。
不動三尊の脇司が善財童子といわれていますが、これは矜羯羅童子と制多迦童子が同じ友木(同じ木)であることが判明しました。
稲荷神と秋葉神の材料が同木です。
いろいろ比べています。
難しい作業です。
武塔天神と牛頭天王がやはり同じ友木であることが判明しました。
武塔天神と牛頭天王の底面を合わせたところです。
木目が一致しませんか!
武塔天神です。
牛頭天王です。
山王神の裏です。山王と彫られています。
他から還座された菩薩像とされている像の背面に何やら文字が彫られている形跡があり、拓本がとられている跡があります。
総代さんをはじめ役員の人たちと一緒にあぶりだしをしたのですが、判明しませんでした。
2016年5月1日(日)
円空学会研究会が埼玉県春日部市の小渕観音院で開催され、匠琳先生が出席し、講演しました。
木遊会からは、先生を含めて10名が参加しました。
小渕観音院に到着しました。
修理の終わった山門です。
その後、匠琳先生が「観音院の円空仏」と題して、プロジェクターを使って講演しました。
円空学会の講演でプロジェクターを使うのは、先生が初めての試みです。
先生の専門的な木取りや作像の映像を交えて解説したので、わかりやすく好評でした!!
時間が予定より遅くなってしまいましたが、皆さん最後まで先生の話を熱心に聞いてくださいました。
ありがとうございます。
(先生の講演中の写真ですが、残念ながらホームページに掲載できるものが撮れていませんでした。すみません。)
2016年5月1日(日)の匠琳先生が講演した内容をわかりやすく解説します。
「観音院の円空仏」
観音院の円空仏をお話するには江戸時代一大勢力を誇った不動院の存在があります。
以前、浦和高校社会歴史研究会の調査をまとめた織本重道さんの論文に依ると、不動院は文亀年間1501~4年頃の創建で開祖は饗庭能登守秀春と言う人で、後に法名秀円改名したという美濃の土岐源氏出身で一時三河に移り住んでから関東に下向し、幸手一色氏の領地に不動院を開いたのですが、二代目の頼長の時に天正20年幕府より修験年中行事職の朱印状など得て急速に勢力を伸ばし、小田原の玉龍坊と並んで関東全域に大きな勢力を持っていたそうです。
1800年初期に描かれた日光道中分延絵図に依りますと日光街道から観音院の南側を参道が通っていて南西の方角にありました。
延宝7年7月5日に円空は滋賀の園城寺の尊栄から「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を受けた時に園城寺には不動院の高僧が大勢の従者を引き連れて逗留していたと考えられます。
この不動院の高僧の依頼を受けて急遽本尊造顕する為馳せ参じたと言う事ですが、不動院の開祖が美濃の土岐の出と知り同郷のよしみで引き受けたと思われます。
延宝7年の秋も押し詰まった頃、円空は関東に向け出発し、翌延宝8年の早春に春日部幸手不動院に着いて不動三尊を造顕しました。
しかし明治新政府の神仏分離令などで(修験は神仏混合の修験宗)不動院は観音院と共に天台宗に改宗して生き残りを図ったのですが急速に衰退して行き葛飾区へ移った後、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失してしまったそうです。その時に円空作不動三尊も一緒に焼けてしまいました。
この三尊は円空が関東で最初の像と言う事になります。
円空は不動三尊を作像した後に不動院の寺領内の社寺や当時関東全域の880もあったとされる末寺などを訪ね造像して行ったと考えられます。
また円空はもう一つの目的を持っていたと考えられます。それは日光光樹院の高岳上人から「サラサ童子法」などの教えを受ける為日光街道など途中で多くの円空仏を残しました。
さて観音院の円空仏を見てみましょう。
観音院は不動院の創建より遡ること約242年前の正嘉2年1258年の創建です。ここには七体の円空仏が残されています。
不動明王立像・聖観音菩薩立像・伝毘沙門天立像
護法大善神・蔵王権現・役行者・徳夜叉大善神
では、一体ずつ解説していきます。
伝毘沙門天と不動明王の底面です。 一木であることがわかりますね。
↑ 限られた大きさの梁材をお互いに幅を取るように斜めに木取りをしています。
護法大善神、徳夜叉大明神、役行者、蔵王権現像は不動院で作られたと考えられます。
なお、昭和36年頃は護法大善神像2体は観音院にはありませんでした。後に還座されたと思われます。
以上が、匠琳先生の講演内容です。
(写真 「不動三尊」 春日部市教育委員会提供、その他は前田邦臣氏撮影)
2016年3月10日(木)
今年の5月1日に、埼玉県春日部市小渕観音院の御開帳に合わせて円空学会研究会が開催されます。この後に一般の人たちに円空と円空仏を少しでも理解してもらうために、円空学会理事長の小島悌次先生が「関東の円空仏」、円空彫刻研究協会会長で円空学会常任理事の山田匠琳先生が「不動院と観音院の円空仏」と題して講演をすることに成りました。
これに伴い匠琳先生は、今まで関東の円空仏、特に不動院と円空との関係について研究されている中で、昨年発表された円空研究29号(円空関東巡錫足跡)でまだ謎であった、何時頃滋賀の園城寺を出発して何時頃不動院に着いたのかが未解決でした。この謎を解決することによって円空が何時から作造を始めたのか、どういう経路で作造していったか、何時ごろまで関東に滞在して居たのかが分かります。
そこで講演会に間に合わせるために、唯一現存する2枚の不動院の御本尊とされる不動三尊の写真を手掛かりに、像容や手法が一致する他の円空仏を探しました。
2016年2月10日(木)
岐阜県羽島の中観音堂です。
目を付けたのは岐阜羽島の中観音堂に祀られている二体の十二神将です。
それは像容と作造の割り振りが似ていることでした。
又このうちの一体の背面には墨書で延宝7年と書いてあることは知られています。
早速3月10日、中観音堂の役員でもあり円空学会の監査役でもある加藤さんに連絡を取り、ご厚意でゆっくり精査することができました。(その時の写真は下記「岐阜県羽島(中観音堂)へ行ってきました」に掲載)
(背面) 延宝7年と書かれた墨書があります。
その結果二体とも十二神将の中の一体であることがわかりましたが、延宝7年の墨書のこの像は持物が欠落していて、化仏も腐食して、判別出来ない状態でした。材質は檜系です。この像と不動院の不動三尊の共通点は割り振りと像容が似ています。
もう一体の像は一見同じセットのように見えますが、細かい表現が異なり面の造作の違いと材質が杉である事と、鉾の持ち方と化仏から判断すると、十二神将の内の子像ではないかと考えられます。更にこの像は墨書のある像より少し前に彫られたようです。
この中観音堂の延宝7年の墨書のある像が造作された後に、円空が不動院に不動三尊造顕のため巡錫したことが推測されます。
匠琳先生が中観音堂から帰った3月10日の晩、延宝7年円空が園城寺で血脈を受けた月日、延宝7年7月5日を理事長の小島先生に確認したところ間違いないとのこと、この延宝7年7月と茨城県笠間市月崇寺の観音菩薩背面に延宝8年9月中旬の墨書があることから、この間の空白時期に円空は関東に向け出発したのではないかと推察されました。
ではこの13か月の空白をどう埋めるか、そのヒントが円空研究29号の匠琳先生の発表した「円空関東巡錫の足跡」の円空が江戸湾(東京湾)船上で詠んだ歌の中の5句に冬の言葉が入った句が4句あります。この歌の冬とは推定すると延宝7年暮れの12月から延宝8年2月の間と仮定します。これから逆算すると円空が関東に向け出発したのは延宝7年11月中ではないかと推定されます。
そして円空が不動院で不動三尊を造顕したのは延宝8年2月の初めから3月に掛けてではないかと考えられます。
この件について小島先生もこれで決まりと賛同されました。
その後広大な不動院の寺領の中に点在する神社や末寺に多くの円空仏を残し更に天和2年まで4年間にわたり日光始め不動院を中心に寺領外の関東全域の末寺に作造して廻ったと思われます。又他の地域に比べ民家に比較的円空仏が少ないといわれるのも末寺に多く泊まったせいではないかと考えられます。
以上の結果、年表に「円空が関東巡錫したのは、延宝7年の秋」と付け加えるのが妥当ではないかと思います。
これにより円空は足掛け4年、関東で布教と作造活動を行っていたこととなります。
2016年2月21日(日)
円空学会研究会が岐阜県岐阜市の勝林寺・美江寺で開催され、匠琳先生が出席しました。
研究会後は、岐阜駅前のじゅうろくプラザで常任理事会が開催されました。
図録の写真です
午後、研究会の開催場所の勝林寺へ行きました。
勝林寺の「観音坐像」です。
裳懸座(もかけざ)の長い特徴のある像です。
裳懸座の下には蓮台が線刻されています。;
勝林寺の「薬師如来坐像」です。
こちらも裳懸座が長い像です。
円空は一時期、裳懸座の長い像を四十数体つくりました。
次に美江寺へ行きました。
美江寺の「聖観音坐像」です。
勝林寺と同じ時期の裳懸座の長い像で、その下に蓮台があります。
像容を見ると勝林寺の像より少し早い時期に作造されたと思われます。
美江寺に「庚申(青面金剛神)」の像がありました。
とても立派で、しばし見とれてしまいました。
ここのお寺の像は疎開してあったので、戦災を免れたそうです。
貴重な文化財が残ってよかったですね~!! (^O^)
2016年2月11日(木)
千葉県館山市にある鶴谷八幡宮にお参りに行ってきました。
ここには有名な後藤利兵衛義光作の彫刻がありました。
鶴谷八幡宮の表門です。
鳥居の奥に本殿があります。
市の文化財である拝殿向拝の格天井にはめこまれた百態の龍は安房の生んだ名彫刻師 後藤利兵衛義光の爛熟期の作品だそうです。
木鼻の獅子も細かく丁寧に彫られています。
圧倒されました!
向拝の中心にある大きな龍の彫り物を囲むように格子に百態のそれぞれの表情をした龍の彫り物が圧巻でした。
いつまでも見とれてしまいます。
ふーーーーー(´-`*)
2016年1月30日(土)
匠琳先生が、現在開催中の「水-神秘のかたち」展を観覧しました。
この展覧会は水にかかわる絵画・彫刻・工芸作品等が展示されていて、その中に園城寺(三井寺)の龍王像(円空作)が出品されていました。
会場 サントリー美術館(東京都港区赤坂 東京ミッドタウン内)
会期 2015年12月16日~2016年2月7日
東京ミッドタウン ガレリア3階にサントリー美術館があり、そこで開催されています。
美術館内は撮影禁止のため、写真はありませんが、割と筋の通った展覧会でした。
こちらがその時の図録です。
園城寺の出品は3体でしたが、図録には7体すべてが載っています。
こちらが図録に掲載されている
滋賀県 園城寺(三井寺)の善女龍王像です。